インドラデヴィのyoga for americans

アシュタンガヨガ外伝:インドラ デヴィ – 現代ヨガの母

西洋人初の女性ヨガ講師として知られるインドラ・デヴィですが、ここでは、ロシアで生まれてアルゼンチンで生涯を終えるまでのインドラ・デヴィの102年間の生涯を時系列で追っていきます。

誕生〜ヨーロッパ時代

若かりし頃のデヴィ1899年5月12日にリトアニアにて、地元の銀行の頭取の父とロシア貴族の出身で、女優の母の間に生まれました。

ユージニー・ピーターソン(インドラ・デヴィの本名)が15歳の時、ニュー・スルー運動(19世紀後半に流行した超自然・精神的な運動:1970年代のニューエイジ運動の先駆け)に参加していたアメリカ人が書いた「ヨガ哲学と東洋の神秘についての14のレッスン」という本などに強く影響を受けました。

1917年にペトログラードの学校を卒業してすぐにモスクワで演劇の勉強を始めます。同じ時期に、10月革命が勃発し、母と一緒に故郷のリトアニアに避難し、ポーランドを経て、1921年にベルリンに落ち着きます。その間、女優・ダンサーとしてヨーロッパ中を公演で転々としていたそうです。

「私は、直感的にその集会に参加しなければいけないと思いました」

インドラ・デヴィのアサナ1926年に、オランダのオンメンで、アニー・ベサント(女性の権利積極行動主義者)の神智学会の集会が開かれると聞きつけ、ユージニーは参加を決意します。「私は、直感的にその集会に参加しなければいけないと思いました」とその時の事を後に回想しています。

その集会では、4000人以上の参加者が公園にテントを張ってベジタリアン料理を食べて過ごしていました。「思わず鼻をそむけました。こんな草をどうやって食べるの?家に帰ってビーフステーキを食べるわ」その光景を見たユージニーは最初、単なる異国情緒へ憧れている人達の集まりにしか見えませんでした。しかし、集会中のある晩、ジッドゥ・クリシュナムルティ(宗教的哲人・自由人)のサンスクリット語のチャンティングを聞き、瞬く間にその音色に惹き付けられたといいます。

「とても長い間忘れかけていた懐かしいような、それでいて新鮮な感情を呼び戻してくれた気がしました。これは私のターニングポイントになりました。そのキャンプで過ごした1週間が私の人生を変えたのです・・」

「私の心はインドにある」

その頃、ユージニーは、ベルリンでたくさんのファンを抱える程の舞台女優になっていました。1927年には、裕福な銀行家から結婚の申し出を受け、彼女は、「結婚する前に、夢であったインドに旅行させて欲しい」とその男性に頼み、彼女の3ヶ月間のインドでの滞在費用一切をその銀行家が持つ事になりました。

インドでの3ヶ月間、彼女は南インドから北インドへと移動していきました。サリー(民族衣装)を着た女性の珍しさや、人々が床に座ったり、沐浴をしたり、右手で食べ物を食べたりというインドの習慣に最初戸惑いましたが、すぐに環境に慣れ、インドの文化を吸収していきました。

インドから帰国してすぐ、彼女は婚約者の銀行家に会いに行き、「私の心はインドにある」と伝えました。若干彼に悪いという気持もありましたが、きっと婚約者も理解してくれると信じて、婚約指輪を返したそうです。

インド時代

インドにてユージニー(後のインドラ・デヴィ)は、もっている宝石、毛皮類を売り払い、そのお金でインドに移り住む事にしました。まず、彼女はインド古典舞踊を学び始めます。

チェンナイのアダイヤーで神智学会の集会が開かれた時、彼女はそこでインド古典舞踊を披露しました。それを観たインド人の映画監督の誘いを受ける形で、1930年にインドで銀幕デビューします。映画「アラビアン・ナイト」の主演級の役をもらい、それは男性の役でした。その時、芸名のリストを見せられ、その中の1つの芸名を選びました。それが、「インドラ・デヴィ」という名前でした。ちなみにインドラ・デヴィとは、サンスクリット語で、「喜びに満ちた女神」という意味だそうです。

1930年にボンベイにあるチェコスロバキア大使館で働く商務官の男性と結婚。そして、インドという植民地での社交界にデビューし、パーティー、クリケットや競馬観戦に興じていたそうです。その間、ユージニーはインドのカースト制度を超えた様々な階級のインド人達と積極的に交流するように努めました。ガンディ、タゴール(インドの詩人)、ネール(政治家、インドの首相)などの著名人などとも友好を深めたと言われています。

「こんな生活を送る為に私はインドに来たの?」

彼女が白人支配者層に属しながらも、インド解放の運動に参加したりする事を、夫は理解し、許可していました。

「たったひとつ私が手放したくなかったのは、インド人達との分け隔てない交流でした。当時、インドに住む白人には、そういう行為は許されていなかったのです。しかし、私は会いたい人に会い、受け入れたい人全てを受け入れました」

しかしながら、インドでの彼女の理想と現実のギャップに悩みます。自分の置かれた立場では禁止されている事をやり続けた結果、ユージニーは、胸の痛みなどを訴えるようになります。

「パーティーの人気者になって、ファッションリーダーになる為に私はインドに来たの?人々を助け、働くという最初の計画はどこに行ったの?今こそ、また0から自分の生活を始めるいい機会よと自分自身に言い聞かせました」

インド人の医者や西洋の医者に診てもらっても胸の痛みは一向に直る気配はなく、4年の間、良くなったり悪くなったりを繰り返します。そんな彼女に、ヨガの練習生であった友達が、「ヨガの達人の元でその病気を直してもらったらどう?」と言われ、ユージニーは早速行動に移します。

「女性、しかも外国人にヨガを教えるなんて・・」

ユージニーは、健康を回復する為に、高名なヨガの達人、クリシュナマチャリア(シュリ.K.パタビジョイスの師匠)に弟子入りを申し出ます。クリシュナマチャリアは、彼女を見てこういいました。「ヨガはインド人の男性だけに伝えるもの。女性、しかも外国人にヨガを教える事は出来ない」と即座に断りました。事実、1937年当時、クシャトリヤ階級(カーストの王族、武士階層)の若い男子のみがマイソール地方でヨガを学んでいました。

「クリシュナマチャリアはまるで超人に思えました。自分の心臓の動きを止めたり、離れた場所からライトをつけたり、消したり・・でも、私を排除する事はできなかったわね」

インドラ・デヴィとクリシュナマチャリアクリシュナマチャリアから断られたユージニーは、マイソール地方のマハラジャ(王)に、仲介(圧力をかけた?)を頼み、彼女を弟子入りさせるようお願いしました。マハラジャのお抱えヨガ講師であったクリシュナマチャリアは、渋々彼女を迎い入れる事に同意しました。

弟子入りを認められたものの、クリシュナマチャリアは彼女を特別扱いせず、厳しい訓練と、厳しい食生活を彼女に課しました。肉はもちろんの事、砂糖、小麦粉、お米類も禁止し、芋、人参、玉ねぎなどの根菜類も食する事は許されず、太陽の恵みを受けたフルーツなどのみの食生活だったと言われています。ヨガの練習も日の出前から始まり、夜9時までには寝なければならず、寒い日でもストーブの使用は禁止されていました。ユージニーは、最初はその生活に戸惑いを見せましたが、少しずつ慣れ、他の男子生徒と同じように普通に日課をこなせるようになっていきました。

体重も減り、顔色も良くなり、4年の間悩まされていた胸の痛みの病気からも完全に回復しました。その様子をみたマハラジャの妻は、ユージニーの献身ぶりに敬意を感じていたと言われています。事実、ユージニーの修行期間中、マハラジャの妻は、彼女のためにクリシュナマチャリアの教えに沿った外国人用の特別な料理を提供しつづけました。

君はヨガを教える事になる。君なら出来る。

ユージニーの熱意が、クリシュナマチャリアにも伝わり、彼女が個別に指導してもらえる機会も増えて行きます。

「彼は私に次のトレーニングに進む準備はできていると言いました。次の日、彼は私に普段より早く来るようにと言いい、私は彼の所に早めに行きました。彼は誰にも邪魔されないようドアの鍵を閉めて、私に呼吸をコントロールする特別な訓練を教えてくれました。そしてそれを忘れないように、私に全て書き写すように言いました」

1938年、ユージニーは外国人女性として初のヨガ講師となります。そしてユージニーが夫の転勤で中国の上海に行く事を知ったクリシュナマチャリアは、再び彼女を呼び、「今から君は我々の元を去る。ヨガを教えなさい。君ならできる。是非、やりなさい」 と伝えたそうです。

彼女は信じられない思いで一杯でした。「インドではヨガの先生は生徒に対して絶対的な存在なのです。まだ練習生として日の浅い自分が、そんなヨガのグルになるとはとても信じられませんでした」彼女の夫でさえも、クリシュナマチャリアは大変なミスを犯したと思ったそうです。

中国へ行く途中の船の上で、彼女は生まれて始めてダンスをしたいと思わなくなり、宝石や大げさなドレス類も必要でないと感じました。それ以来、彼女はシンプルなサリー(インドの民族衣装)のみで生涯過ごす事になります。

中国時代

ロータス1939年、上海で、インドラ・デヴィ(ユージニー)は、蒋介石夫人の家でヨガ教室を始めます。蒋介石夫人は熱心なヨガ練習生でもありました。生徒の中には、たくさんのアメリカ人とロシア人がいて、その頃から彼女は、敬意を込めてマタジ(母)と生徒から呼ばれるようになります。通常のヨガレッスンや孤児達への慰問などもこの頃積極的に行っていたそうです。

インドラ・デヴィは第二次世界大戦後、インドに戻り、「ヨガ、健康と幸福への道」という本をインドにて出版しています。これはインドで西洋人がヨガについて書いた初の本として知られています。また、彼女はインドでヨガを教えた初の西洋人ヨガ講師でもあります。

時期を同じくして、仕事でチェコスロバキアに戻っていた夫が亡くなります。夫の訃報をインドで聞いたインドラ・デヴィはインドから上海に戻り、土地や持ち物を整理しました。その時、彼女はインドに戻るかアメリカに行くかの決断に迷っていたといいます。

アメリカ時代

ヨガ講師として8年が過ぎ、彼女はすでに高名なヨガ講師として認知されていました。1947年、若干の不安を抱えながらも、アメリカのカルフォルニア行きを決断します。約1年後には、ハリウッドにてヨガスタジオをオープンさせます。エリザベス・アーデン(大手化粧品会社社長)は、ヨガを組み込んだエステティックのプログラム(コスメティックの女王)を開発するにあたり、インドラ・デヴィに強力なサポートをしていました。

マリリンモンローのヨガアメリカでヨガの人気が高まるにつれ、彼女は、一般の人達に影響力をもつグレタ・ガルボ、マリリン・モンローなどのハリウッドのスター達にヨガを教え始めます。「憧れのスターがヨガをやっていると知れば、みんなヨガを始めると思っていたわ」と、積極的にセレブ達にヨガを教えた理由を本の中で述べています。

著名人だけでなく、彼女は、工場で働く女性やセールスレディー向けのリラクゼーションヨガクラスを設け、簡単なヨガのポーズや道徳を説いて、働く女性が日々の疲れを癒せるように努めていました。

この頃から、インドラ・デヴィは少しずつヨガのスタイルを”西洋人向けのヨガ”に変えていきます。呼吸法であったり、食事療法であったり自らの修行時代の厳しい鍛錬と違うよりソフトなヨガを教え始めます。

彼女は、ヨガ的な視点から人間の体の仕組みについて生徒に語ったり、基礎的な瞑想法について教えたりしていました。そして、その中で、彼女の教えはパタンジャリによるヨガスートラを基本としてる事も強調して伝えました。その頃、彼女は「永遠の美しさ、永遠の健康」、「ヨガであなたの人生を変える」 という2つの本を出版し、後に世界29カ国で翻訳される程のベストセラーになりました。

インドラデヴィのyoga for americans1953年、インドラ・デヴィは医者でヒューマニストの男性と再婚します。1950年代半ばには、アメリカ市民権を得て、パスポートには自分の正式な名前として、「インドラ・デヴィ」と記しました。その夫は彼女のヨガのアシスタントをつとめ、ヨガのティーチャートレーニング用としてメキシコのテカテに 24室もある屋敷を彼女の為に購入しています。この頃、インドラ・デヴィは講演、テレビ、ラジオなどを通じて積極的にヨガの恩恵について語り、たくさんの本を出版しています。

1960年には、ソビエトに渡り、ソビエト政府に対して、ヨガは宗教ではないのでソビエトでヨガを普及させる事を受け入れて欲しいと説得に乗り出します。「我々にヨガという素晴らしさを教えてくれたインドラ・デヴィへ」という祝辞をソビエト政府高官から受け取り、たくさんのジャーナリストやヨガの生徒が殺到すると期待してその後数日ホテルで電話を待っていましたが、その時は期待通りの結果にならず、失意を抱きアメリカに帰っています。

サイババ1966年、インドラ・デヴィはまだアメリカでは無名であったサイ・ババと出会い、彼の熱心な信奉者となります。そして彼女のヨガのスタイルを「サイ・ヨガ(霊的なヨガ)」と名付け、メキシコのバハなどにサイヨガアカデミーを設立しています。彼女はこの間、ヨガのレクチャーや慰問目的で世界各地を廻りました。1970年代頃の彼女は、サイババに捧げた時期と言われています。そして1977年に2人目の夫が亡くなっています。

最後の地、アルゼンチン

1982年にインドラ・デヴィはアルゼンチンにヨガを教えに行きます。現地でのあるテレビ番組にその様子が取り上げられた事をきっかけに、インドラ・デヴィはアルゼンチン中でよく知られるようになりました。

1983年には、彼女の教えに感動したアルゼンチンのロックスター、ピエロが、彼女に「僕のスピリチャル・マザーになってください」と頼み、インドラ・デヴィも彼の全てのファンに何かいい影響を与える事に同意します。そのロックスターは早速、刑務所や病院などに出向き苦しんでいる人達と瞑想をしたりする「buenos ondas(良い音色)」という組織を作り、インドラ・デヴィの知名度はアルゼンチンでどんどん上がって行きました。

1985年、彼女は使命感と共にアルゼンチンに渡り、ヨガを教える事を決意します。すでに名声を得た国を離れ、クラスも生徒もいない場所に移住するのは危険と、周りの友達の多くは、彼女のアルゼンチン行きに反対しました。しかし、彼女は南米全土にヨガを普及して廻り、残りの人生をアルゼンチンで過ごす事になります。

1988年に、彼女は「インドラ・デヴィ財団」を設立します。1989年にはインドラ・デヴィやB.K.Sアイアンガーらを招いてロシアで初のヨガ・カンファレンスが開催されます。90歳を超えてなお毎日2回ヨガのクラスをしていたそうです。1999年には、彼女の100歳の誕生日を祝う会が開かれ3000人以上の人がお祝いに駆けつけました。

「ヨガは科学です。次の世紀でも人類を助ける事ができます。ヨガは、身体、感情、そして霊的な深い部分に働きかけるものだからです」

マタジ最晩年になり、ペースを落としながらも各地でヨガの普及をして廻りました。彼女はこの頃、「自分には3つの大事な国がある」と言っていました。彼女の生まれた地、ロシア、母なる大地、インド、そして晩年を過ごしたアルゼンチン・・その3つの国を「暖かく友好的な国」と彼女は呼んでいたそうです。

2002年4月25日、彼女はアルゼンチンの首都ブエノスアイレスで穏やかに亡くなりました。102歳でした。母なる大地、インドの習慣に習い、彼女の遺体は火葬され、ラ・プラタ川(アルゼンチンとウルグアイの間を流れる川:河口部には,ウルグアイの首都モンテビデオ、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスがある)に散骨されました。

 最後にシュリ.K.パタビジョイスとの関係は?

パタビジョイスとの関係を、探るつもりで調べたインドラ・デヴィの生涯ですが、結局パタビジョイスとの関係性を見つける事ができませんでした。誰か知っている人がいたら教えて下さい。ただ、1つ、BKSアイアンガーとの会話の中で、インドラ・デヴィについて言及している所があります。所々、間違いがありますが、この会話からも分かる様に、シュリ.K.パタビジョイスとインドラ・デヴィにはあまり接点がなかったのではないかと推測できます。

シュリ.K.パタビジョイス(以下KPJ):「アメリカから来た、インドラ・デヴィという女性を知っているか?彼女もシャラ(ヨガ道場)に練習に来ていたよ」
B.K.Sアイアンガー(以下BKS):「ああ、知ってる、知ってるよ。随分後になって、インドラ・デヴィと名乗る様になったんじゃないかな」

KPJ: 「彼女は最近亡くなったと聞いたが・・」

BKS:「ブラジルでね」

KPJ: 「ブラジルか・・」

 

参考文献等

敬称略